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2015年9月19日土曜日

「しかし」で考える:文章を書くことと「外部」を知ること

  僕はほんとうの気持ちを彼女に告白した。しかし、返事はNOだった。

私たちが文章を書くとき、とくに説明的・説得的に書く必要に迫られたときには、「首尾一貫するように」「論理的に」というアドバイスを受けることが多くあります。そうした際にポイントとなる事柄のひとつに「接続詞(接続語)の使い方」があります。「◯◯で、◯◯したから、◯◯だけど、◯◯……」と助詞で繋ぐ文章は、全体を見渡すのが難しく、読み手にやさしいとは言えません。あまりに接続詞が多い文章も読みづらいものですが、要所要所で適切に用いられた文章は、筋道が辿りやすく理解もしやすいものです。先の文例も「~彼女に告白したが、返事はNOだった」と一文で書くよりも、一端文を切って「しかし」と後文に続けた方が、「(成功を願っていたにも関わらず)告白は失敗に終わった」という前文と後文の繋がりがより明確に、しかもなんだか重みをもって感じられるように思えます。

しかし、(←使ってみました)次のような例はどうでしょう。

  僕はほんとうの気持ちを彼女に告白した。しかし、返事はYESだった。


最初の例とは反対の結果が、同じ「しかし」で結びつけられています。一般的に、前件と後件をを「逆接」の意味で結び付けて接続関係を形成するとされる「しかし」ですが、こんなことができてしまう語は“論理的”なのでしょうか。「しかし」の使用によって明示される「論理」が前件・後件の内容そのものにあるのだとすれば、二つの文例は矛盾していることになります。ところが、「ある状況」を設定すれば、両方可になる。

はじめの例では、「告白の結果(返事)がYESとなる」という推論に対して、それとは反対の結果が導かれることを予告する働きを「しかし」は担っています。後の例では、その推論が「NOとなる」となっているわけです。つまり、「しかし」が導いてくるのは文の表に現れている意味内容ではなく、文に埋め込まれて表面上は見えてこない推論的な意味、発話の背景にあるものであることがわかります。 「返事はYESだった」という結果が「しかし」で導かれるためには、「たぶん返事はNO」だろう、という推論が前提となる必要があります。(ところで、たぶん断られるだろうな…と予測が立つ告白、そうとう分が悪い状況だったのでしょうか。それとも、二人はすでにつき合っているのかもしれませんね。その上で、「ダメって言われるだろうな」と思いながら何かお願いをしていると考えると…「ほんとうの気持ち」ってなんなのでしょうね。気になります。)

私たちが文章を書いたり発話したりする際に、論文用語・スピーチ用語などを使えば、「それらしい」日本語ができることは確かです。ですが、話の文脈がどのように展開するのかという推論は、私とあなたとの間で、必ずしも共有されているわけではありません。その推論を生み出す前提や背景、それを支える生きている「場」が個人個人でまったく異なるからです。自分の中では「しかし」で結ばれる内容が、読み手/聞き手にとってはまったく「しかし」ではない。論理を明確にするための接続詞がこれでは意味を失ってしまいます。

それでは、相手に伝えるときには、そういった語の使用を避ければよいのか。 それは極論ですよね。むしろ必要なのは、推論のあり方を受け手と共有する思考、文章には現れてこない背景や前提を自分の中に呼び起こす姿勢だと私は考えます。文章は頭の中を整理しないと生み出すことはできません。その意味で、「しかし」は自分の思考を整理してくれるものだといえます。それでも、発した言葉は、最後に「読み手/聞き手」が受け止めることになります。その意味において、「しかし」が整理するのは私の思考をまとめる筋道ではなく、受け手の理解を助ける思考の筋道である必要があるのです。

「ことばを使いこなす」ということは、推論の力、自分とは異なる相手の考え方や眼前にはない外部との繋がりの存在を知っていくことでもあると思います。

(なんだか研究室の研究テーマとは異なって、現代語の話になりました。 〈しかし〉、現代のこの言語使用の問題は、日本語の歴史的な変遷と無関係ではありません。また、「書くこと」の問題も歴史的な日本語の有り様と深く結びついています。そのお話は、またいずれ。)

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