ページ

2020年4月24日金曜日

オンライン授業を始めるにあたって(ガイダンスで話したこと)

(ここでは、これまで日本語史研究・日本語史の教育に関わってきたものとして、その経験に基づくお話をします。少し専門的な立場から見た、それだけにちょっと狭いお話になるかもしれません。)

いま現在、社会生活が様々に制限される中で、教育・研究も大きく転換を迫られています。私もこれまで継続的に行ってきた教育の実施が非常に難しくなりました。皆さんにとっても、「当然受けられるはずの、期待していた教育がダメになった」と感じている人が多いことでしょう。たしかに、思い描いていた大学生活とはまったく異なる形を強いられることになり、不安・不満を抱くのは当然のことです。これに対して、私は皆さんに「我慢してください」というメッセージを発するのではなく、「『この形』でできる最良・最高のことを(ちょっと大げさですが)、さらには『この形』だからこそできることを探そう!と呼びかけたいと思っています。

それでも「我慢」はやはり存在していますね。キャンパス内・研究室で勉強したくても、それは制限されていますし、対面して無駄口を叩きながら授業を行うことは難しくなりました(まあ、無駄口はきけそうな気もしますが…)。しかし、教育の文脈において我慢を強いるというその背後には、「私が予め想定したゴール」や、「そのゴールに至るために私が敷いておいたレール」を理想的な形として措き、「皆さんをそこに乗せて運ぶことができなくてゴメン」と思う感覚、「今までの私たちにとっての理想」があって、その立場から見て今現在を評価する前提が存在しています。でも、「理想の形」はそこにしか無いわけではないでしょう?もちろん、既存の教育の形態は、先人達が工夫し積み上げた上に立っており、その意味では洗練されたものとなっています。しかし、そうした中で必ずしも重視されてはこなかったもの、方法上、優先度を低く見積もられてきたもの、発見されてはこなかったものがたぶん、あります。今これらに着目して行こうというわけです。

もちろん、教育の形は「目標」に沿った最適/最良のものが選ばれてきたわけですから(まあ、これには異論もあるでしょうけれど)、取り得る形が変わるのであれば、目指し得る「目標」もまた形を変えざるをえません。私がここで強調したいのは、目標を固定的に捉えて、皆さんに劣化版の教育を受けさせるくらいなら、目標自体を変容させることで、今ここでしかできない教育を一緒に作りませんか、ということです。あ、こういうことを大声で言うと、某省から怒られてしまうかもしれませんので、言い直しましょう。〈いま現在の私たちだから目指し得る、私たちの目標を付け加えましょう〉これなら、シラバスに対しても嘘をついたことにはなりませんよね。

非対面・オンラインで追究すべき/既存の教育に付加し得る「日本語史の教育」の目標とは何か。授業の中でお話していきます。皆さんも一緒に考えて欲しいと思っています。

(*この「目標」をどう想定し、どのように見つけたか、いずれここにも書きたいと思います。)


0 件のコメント:

コメントを投稿