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2020年12月25日金曜日

質問する難しさ、あるいは議論の起こし方について

オンラインでの非対面授業が続いています。私が行っているのは2タイプ、動画配信型、会議システムによる双方向型。最近ではさすがに私も学生たちもこの授業形態に慣れてきました。すると、ゼミや演習の発表系の授業では、「もっと(議論が)盛り上がらないかなあ」という声がちらほら聞かれるように。議論が盛り上がるためには、どうしたらよいのでしょうか。もちろん、活発な議論が交わされる場というのも、どこかに存在しているのだとは思いますが。(オンラインで盛り上がるためのこんなツールがあるよ、という話をするわけでもありません。まあ、私の場合はということで。)

まず、「盛り上がらない」典型は、質問が出ないというもの。「何か言わなきゃ」「聞いてみたいけどうまく言葉にできない」といった見えない焦りが空間を支配し、気まずい無言が続く…。無理をして発言しても、それがただの「指摘」になって相手の「すみませんでした(orありがとうございます)」という言葉を引き出してしまう。(←これ、「もうこれで話を終えます」という意味ですよね?笑)頑張って何か発展的なことにつなげようとしても、うまく言語化できず、まとまらない言葉は誰にも受け止められることなく、相手と私の間をむなしく漂う…。オンライン授業では、皆と空間を共有していないだけに、こうした葛藤が生じやすく、場との断絶感も深まりがちです。さて、どうしましょうか。

私がゼミ等でいつも主張していることは、「答えの追及を目的化しない」質問も出してみよう、ということです。質問って答えを得るために行うものでしょ、と言われてしまいそうなので、まずは授業の場でよくあるやりとりを考えてみます。先に挙げた「指摘」が典型で、一問一答式の問答では、答え(=終わり)があることは始めから分かっています。話が続く、したがって盛り上がるという展開はあまり期待できません。もちろん、この形式も重要です。疑問点を明確にすることができますし、そこから次の問いが生じてくることだってあるわけです。しかし、まあ中々そんなことにはなりませんけど。それどころか、その一問一答式の問答すら生まれない、それはなぜか。

質問を言語化するためには、質問する側に対象に対する知識・情報が必要となります。少なくとも発表者と同じだけ。つまりは、勉強不足ということですよね。でも、私がここで一番言いたいことは、勉強してください!ではありません。そんなことは皆わかっているし、それが常にできれば苦労はないわけです(…分かってましたよね?笑。「あ、そうだったのか」と今気づいたのんびり屋さんは、すぐに勉強を始めてください!!)。それに、内容の専門性が高くなればなるほど、たとえば卒業論文などの段階では、相手と同じだけの勉強をあらかじめしておくことは難しい、さらに、皆さんが授業・大学という場から社会に出たら、勉強が追いつかない内容、突然出来した問題にも参加して議論を構築する局面に否応なしに立たされることになります。

さて、長々と書いてきましたが、ここで先の「答えの追及を目的化しない」に戻ります。要は、話題の完了があらかじめ見えているような質問を避けることができるといいね、という話でした。先に挙げた一問一答式の問答は、ついて行けない話題に参加しなければならなくなった私たちが縋りたくなる「議論の型」です。大きな議論ができないので、せめて小さな糸口を探す、それは分かる。しかし、その小さな話題は、話題の専門性が高くなればなるほど、また「見つけにくく」なっていくものです。

授業で交わされる議論において、私たちはやはり「大きな」話題を見つけたい、と願うわけです。しかし、自力でそれを見つけるには、勉強が必要。その域に到達する前、まだ勉強中の私たちが、できることは何か。私は、大きな話題を自ら提出できずとも、大きな話題の発見へと議論を展開させることはできるかもしれないと考えます。そのために、議論への参加に際して、

  1. 内容の説明を求めるよりも、何故そのように述べるのか、何故この方法をとったのか、といった相手の意図の確認を重視したい。
  2.  その「意図」の言語化は、研究の「目的」を明確にするための重要な方法であることを自覚したい。

 という意識をもってほしいと願っています。つまりは、局所的に行われる議論も、すべて研究目的との関連において理解され、結果として目的はより明確なものになる、ということです。これが、当面私たちが到達することが可能な「大きな話題」です。

ただし、この過程を「この研究の目的は何ですか?」という質問で行ってしまっては、行き着く所は一問一答式の答えと変わらなくなってしまいます。発表者がそれまで無自覚であった「目的」を手に入れることができるのは、それを考える過程が場に設定されるから、それを考えるための議論へと誘ってくれた人がいて、共に考えてくれた人たちがいるから、ということになります。このように考えると、質問のしかた、議論の起こし方に対する「答え」は、こうやって皆で考える場を構築するという「目的」を自覚することで、はじめて明らかになることに気づくわけです。

私が述べたことは、議論の構築に関わる人であれば、当たり前のように共有している考え方です。オンライン授業で際立つことになった「盛り上がらなさ」や「場との断絶」も、こうした意識に目を向けることで、ちょっとは変わっていくのかもしれません。なにより、知識を持たない私たちが〈そこにいる意味〉を確認することは、それこそ意味が大きいのではないでしょうか。


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