2017年1月19日木曜日

〈わたし〉のカリキュラムをどのように構築するか(後編)

カリキュラムにおける「選択の余地」が人社系の学問の特徴の一つだとすれば(前編より)、そのカリキュラムについて、なんの役に立つかとあらかじめ問うことには(本質的な)意味がありませんし、意味のない問いに対する答えが無いからといって、これに批判を加える行為もまた意味を持ちません。この場合、なんの役に立つかは、個々の選択の結果生まれるまとまりに対して、個々別々の言葉として事後的に現れるものだからです。

とはいえ、そうしたカリキュラムの特性を「逃げ」にして問題を棚上げにしておくことが許されるわけではありません。選択に際しては、やはり自らの専門性をつくりあげる上での必要性が語られなければならないでしょう。しかし、専門性が自分の現実とはかけ離れた遠い言葉で語られ、またきわめて狭い範囲に設定されるのであっては、自信をもって選択の意味を語ることができないのも当然と言えますよね。ではどうするか。

ここまで述べてきたように、自分自身の専門知をつくるカリキュラムは自らがオーダーメイドで構築する必要があるものです(あたりまえですね)。ただ、そのオーダーメイドな構築のあり方の本質は、個別の授業科目について、必要なものを〈集める〉 ことにあるのではありません。むしろ、あらかじめ定められていて、自分とは少し離れたところにあるように見える個々の科目の意味を、自分にとって必要なものに〈する〉ことにあるのです。〈する〉という言い方ではなく、〈変える〉〈引き寄せる〉〈ずらす〉と言い換えてもよいかもしれません。これらの動詞・句は、みな元の性質や状態や位置を自らの意識をもって(元々の延長線の上に)変容させるというところが共通しています。

重要なのは、元々付与されていた普遍的な意味が、なぜ私自身の個別的な意味に上書き可能になるのか、意味の上書きを可能にするのは、どういった思考なのか。それを自分の言葉で説明することができるということです。それぞれの科目には、共通の意味、そのまま科目の集合体の名前にすることができるラベルが貼り付けられているとは限りません。内容上・分類上、関連づけて括りやすい科目同士もあれば、ぽつんと離れて存在するように感じる科目もあるでしょう(必修だから、という以上の理由が見つかられない科目もあるかもしれません)。そういった要素(科目)同士を隣り合わせるためには、目には見えないレベルにある類似性のようなものを発見する必要があります。

どういう言葉がであれば、目に見えない類似性を表すことができるのか。〈わたし〉のカリキュラムの構築は、この類似性(言葉)の発見にかかっています。他人から貼り付けられている意味のラベルを、自分の意味のラベルに上書きしていく作業は、自らが関わるすべての科目について行われます。その際に、個々別々の特性を持つ科目に統一性と方向性を与えるのが、この〈わたし〉の言葉です。その言葉に基づいて、離れているものが同じカテゴリーに入る理由が説明されます。

その意味では、日本語史研究者の私にとって、たとえば「平安時代の日本漢文の用字法の研究」と「SNSにおけるコミュニケーション論」、「僧侶が書いた書簡文例集の文体研究」と「教科書〈を〉学ぶか教科書〈で〉学ぶか、という授業作りの観点」といった問題は見かけほど遠いものではありません。すべて「〈書くこと〉を媒介にして日本人がどのように思考してきたのか」という私の研究上の興味やテーマとつながる意味をもつからです。また、個々の授業を展開する立場としては、そうした「〈わたし〉のカリキュラム」を構築しようとしている人たちが、「(私の問題と)繋がってる」と感じられるような授業作りを心がけたいと考えているのです。



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