2015年8月31日月曜日

勝手に受け継ぐ

古本屋で築島裕『平安時代の漢文訓読語につきての研究』(東京大学出版会、1963年)を購入しました。平安・鎌倉時代を中心とした日本語史研究では基本中の基本の文献であるので、いまさら感はあるのですが。(本学以前の勤め先には研究費で入れていたし、学生時代に入手困難だった際には1000ページを超えるこの本をコピーして持っていました。)この度、古本で安く出ていたため、チャンスとばかりに。そうしたところ、古書らしく旧蔵者の名前が入っていました。この本の前の持ち主は馬淵和夫氏、音韻史・古辞書・説話等の研究で知られる国語学者です。亡くなってから4年、色々な場で研究上の恩恵に与っていますし、今後もそうあるでしょう。その方の蔵書が私のところに来るということに、なんだか不思議な縁を感じてしまいます。研究に限らず、自らに関わる繋がりは用意されているわけでなく、予め意味を与えられているのでもなく、私たちが「勝手に」感じるところに生じるのかもしれません。私たちはそうやって、自分の進む道に意味を見いだして、前に進んでいくのかもしれませんね。


同じような体験をすでに文章にしていました。別のところに書いたものですが、以下に再掲。


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古書で手に入れた資料4冊『日本教科書大系』往来編古往来(一)~(四)。この度の研究発表のため、これまで使うことのなかった巻を開いたところ、 一枚の葉書が挟まれていることに気づく。宛名にあったのは青木孝氏の名前であった。私が卒業論文に取り組んでいた頃読んだ「変体漢文の一用字法―「者」 (テイレバ)を巡って―」(国語学17,1954)等の著者であると思われた。学部生だった私は様々の論文から研究に関して多くを学んだ。とはいえ、論文 (と研究の世界)にそこはかとない憧れを抱きつつも、それは自分とは離れた世界。ところが、あれから20年以上が経過して、研究の最初期に出会った方の恐らくはその手元にあった本が、巡って私のところに来る。なんだかとても不思議なこ とだ。本を受け継ぐというのはこのようなことなのだなと思う。単に書物が元の持ち主から次の人へと渡るというのとは違う、何か本と一緒に前の世代の仕事 (やらなにやら)を受け取ったような気が(勝手に)する。これから私が次の仕事を行うのだな、と。古書にまつわるこれと似た話は多く聞いたことがあるが、 なるほどこのようなことであったかと得心がいったことであった。
ちなみに、葉書の差出人は川瀬一馬氏。こちらも驚いた。中国から出された国際便だ。鑑真和上の故居を訪れたこと等が記されている。

こんなことがあって、研究をするモチベーションが高まった一日。
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