2019年8月7日水曜日

研究資料『東山往来』(音で読むか訓で読むか)

ゼミで講読している『東山往来』から。

「私は滅罪のために経典を読誦したいと思います。ところが、経には音読と訓読の両様があります。いずれが勝っている(どちらで読むのがよい)のでしょうか、教えてください!」(『東山往来』第12条、往状)

西洛の檀那が手紙で東山の師僧に問いかけています。お経(漢文)を音読するか訓読するか、平安末期の貴族にとっては、仏から授かる恵みをいかにして得るかという問題、真剣に悩むところであったことでしょう。一方で、日本語研究史の立場から見ると、この問いには漢文(漢字)と日本語との関わり、さらには学びの本質が現れていることに気づくのです。


師僧は答えます。

「上代の師達は『音(で読む)経は多くの義を含んでいる』と説いています。このように多義によって成る経を訓で読むということは、一つの義に対応する日本語(和言)を選ぶことに外なりません。こうしたわけで、訓経はその功徳(理解)が浅いものになるのです」
「ただし、一応の義を浅く知るためには、訓読を可とします。本義を深く考えるためには、音読を用います」(同、復状)

漢字漢文の伝来以降、その有形無形の影響を受けつつ日本語の歴史は展開してきました。現在では、「漢語」(日本で生まれた語も含む)を抜きに話したり書いたりすることが難しいほど「漢の要素」は私たちの言葉や思考に入り込んでいます。その傾向は、日常会話を離れた学問的、専門的文脈においてより顕著です。よくテレビ番組の企画で、「外来語禁止のゴルフ」が行われたりします(ついポロッと出ちゃうんですね。「そうとしか表せない」言葉も多いのだと思います)。では、「漢語禁止の小論文」はどうでしょう。とてもじゃないけど書くことはできませんよね。

『東山往来』において、平安貴族が「音を用いるか、訓を用いるか」と問い、僧が「両者は理解のあり方(目的)が違う」と説いたことは、現代の私たちの言語生活や言語感覚にも生きています。『東山往来』では「功が浅い」とされた和語(訓読み)は、漢語(音読み)に比べると物事の意味をピンポイントで厳密に指し示したり、抽象的な概念を表したりするのが苦手、という傾向があります。そうした意味で、高度に抽象化されて経文に込められた意味を「和語」で読み解いていくのは、極めて難しく、たとえ和語を宛てたとしてもそれは一面的なものとなり、言い尽くさない部分を残すことになるのでしょう。私たちが複雑かつ抽象的な思考の多くを「漢の要素」によって実現する所以です。

とはいえ、「一応の義を知る」と説かれた和語も、代替不可能な働きを持って漢語のとなりに存在しています。和語は日常生活に密着した場面、文脈でより活躍する言葉です。そうした言葉が可能にするのは、「自分とは遠くに離れた所にある未知の存在を取りあえず身近に引き寄せてみる」、「厳密な理解には遠くとも先ずは自分の中に入れてみる」という学びのマインドセットです。それは、形ばかりで中身はスカスカな言葉を寄せ集めるように学ぶのではなく、自分の中にある素朴な言葉と外界とを繋ぐように学んでいくあり方なのかもしれません。そうした意味で、平安期の師僧が訓の経を排除すること無く、訓には訓の働きがあると説いた感覚に私は大きく頷くことができるのです。


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